昭和49年12月15日 朝の御理解



 御理解 第33節
 「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」

 おかげを頂きたい。これは誰しもが願わん者はありません。けれどもお供え物とおかげは、付き物ではないと仰せられるのだから。お供え物をしないでも良いというのではないと思う。付き物ではないと言う事です。お供えをすれば、必ずおかげを頂くという意味ではないのです。沢山な物やらお金やら持っておる人が、お供えをどんどん出来る。そんなら、おかげもどんどん頂かなならんけれども、そういうものではない。お供え物とおかげは、付き物ではないけれども。
 お供え物が一生懸命のものまたは無条件のもの。それは私共の命を神様に表示する、表現する事ですからおかげになるのです。徳を受ける力を受けるのです。自分の命を捧げるからです。お金やら物やらそういう物が命とは、不思議な表現ですけども、お金なしには人間は生きていかれません、物なしには人間は生きていけませんそうでしょう。してみると、物もお金もそれはあなたの命なんだ。という程しに大切な物なんです。
 その大切なものをしかも無条件、又は一生懸命の思いが込められて、お供えが出来る所に、これは要らんと言うても、おかげは絶対と言う事になります。ただお供えさえすれば、おかがを受けるというと、だいぶん違うでしょう。だからそこん所をそう言う様な風に誤解して頂くと、こりゃ大変間違います。この御理解は第三十三節とあります。私は今日は、この三十三節と言う所を先に頂いたんです。一つ三十三節と言う事を、漢字の参十参節と言う事にして書いて見て下さい。
 お参りするという参です。参十参節これは結局お参りにお参りを重ねると言う事だと思うです。いうならば一生懸命のお参りと言う事です。今日はおかげは付き物ではないと言う。だから今日はこれになら、おかげが絶対につくと言う様な事を聞いて頂きたいと思う。本当にお参りにお参りを重ねる。朝参ったけん夜参らんでんよかち言う様な事はない。例えていうならね。なかなか出来ません。
 けれどもやはり一心発起すれば出来ん事はない。熊谷さん辺りのようにもう八十近いお婆さんが、三里の道を何十年間朝晩お参りし続けておられますからね。問題は決心です。それが術ないとか、しるしいではなくて、有難う楽しゅう出来ておると言うと事に、素晴らしいと思います。昨日は大分支部の、今年最後の共励会でありますし、綾部さんのお宅の御霊様の帰幽祭でもございましたから、去年から私が年に最後の時だけ、おかげを頂くことに致しております。
 昨日も丁度あちらで十二時だったでしょうか、色々お話をさせて頂いて帰りましたけれども。帰りましてから沢山の色々なお供え物を頂いておりましたから、改めてお届けさせて貰うてそして神様に昨日の事をお礼を申させて頂いておりました。そしたら丁度綾部さんの所のお座敷二つを襖を取ってそこ一杯の方達が、昨日は集まっておりました本当に有難いと思う事去年よりも今年と言う様に、信者さん方の内容も充実ししかも合楽でご神縁を頂いて、それぞれに如実におかげを現しておられる方達ばっかり。
 または合楽の御理解に魅せられるように、合楽の御理解を有難く受けておられる方達ばっかりが新しい方が二三見えてましたけども、ほとんどがそうでした。それで私は会が始まります時に男性の方は、こちらの方に座って女性の方は、こちらへ座れと言うてから、両方へ座らせたら、ちょうど男と女が同じ人数でした。まるきりこれは紅白歌合戦でもしてもいいごたるねと言うぐらいに、男と女の方が同じ人数でした。十二人ずつくらい並んでましたかしらん。
 私が真中の上座に座って、お話させて頂いたんですけれども。その時の様子を頂くんです。そして食卓にはお茶とお菓子だけしか、出てませんでしたけれども、私は御神願に頂くのは、色々なお御馳走がいっぱい並んでおるとこを頂いた、昨日の御直会の時のように。所が皆のご飯茶碗にはご飯がほんのちょこっとずつ、入っておるというみんな。昨日私は色々なお供えの事についての、お届けをさせて頂いておりましたら、そういう御神願を、昨夜頂きました。どう言う事だと皆さん思いますか。
 お御馳走は沢山並んでいる。けれどもご飯がほんの少しずつ、注いであるという。別にお櫃なんかもないとこを見ると、それだけらしいんですご飯が。私は教えを頂くと言う事。これは私はお食事をする時の、副食になるようなもんだと思うですね。教えに基いて行動する。ですからどんな場合であっても、こういう御教えがふっと頭に浮かんでくる、心に浮かんでくる。これは副食的なもの。本当のままになると言う事は、矢張り命の根である。それは私共は心だと思うんです。命の根。
 それは今日申しますように、一生懸命のお供え、または無条件のお供え。それは私の命を削ってお供えするようなものですから、矢張りこれがままになる基になると言う事です。第一は心の根です。いわゆる肉体の根です。病気でも難儀な問題でも、その心の繁栄とさえ言われるくらいですから。まず心を大切にしなければならないと言う事です。ご飯は、いわば命の根です。ご飯を食べて私共は生きる事がでけるのです。
 食べ物それは副食だけでも良いようですけれども、その副食とご飯とが丁度釣り合うてあって、初めてままになるおかげと言う事が、言えるのじゃないでしょうか。今日はご飯が少なかけん、お菜ばっかり食べとかにゃん。そりゃ本当に美味しいものならいいですよね。昨夜は沢山の有名な日田の古いお店だそうですが、そこでフグの料理でお食事させて貰いましたけれども。もうお食事が出来ん。フグだけを腹一杯食べたから、ご飯がいけんごとなった。だからそういうのは素晴らしい事ですけれども。
 毎日そればってんお菜だけ食べとくち言う訳にはいかんですね。たまにはそういうお御馳走の時には、お御馳走だけを食べて、もうご飯な食べようごつなかごと頂けるようなおかげも、頂かなきゃならん。とにかく教えを頂いておる時で、腹一杯になる有り難い。けれどもそれがいよいよその有り難いものが、次のままになるおかげに繋がってかなければいけない。ままになるおかげを頂くためには、私は自分の命を大事にすると言う事は、心を大事にする事であり。
 命を捧げると言う事は、私は物やら金やらを以ってする事である。これは一生懸命のものが伴うておらなければならないと言う事。それを一言で言うと、真心と言う事になるのです。綾部さんの所のお玄関の前に、私が書いて差し上げておる色紙が、見事な色紙掛けに掛けてあります。それに真心と書いてある。ここには真心ち書いちゃるが、真心ちゃ綾部さんどげなこってすかち。そりゃ真心ですたいち言う訳にゃいかん。真心とは私はお互いが、行じておらないと言下に答えも出てこない。
 真心とは一生懸命のものがある。真心には一生懸命のものがある。それも真心。それは例えば少しは教えがついたっちゃ、一生懸命のものであるならば、私は真心だと思うですね。だからちっとお尻の着くぐらいに、一生懸命のお供えが大事だと言う事が分かります。一生懸命のものが入っておる。次にはどう言う事かと言うと、無条件だと言う事です、真心とは。だから色々に頂く無条件。ここにありますようにお供えとおかげは、つきものではないと言われる所をです。
 お供えをしたからおかげを頂くのではない、一生懸命のお供えをするから、おかげを受けるのである。又は無条件。どれだけのお供えが出来たからと言うてです、それに条件がついていないと言う事。それが真心だと私は思う。真心一生懸命。このお供えものならば、おかげが要らんと言うても着いてくるでしょう。同時に今日申しますように、副食だけで腹一杯になるというのではなくて、ご飯と副食が釣り合うて、ままになるおかげを頂くために、教えを腹一杯頂くと言う事だけではなくてです。
 自分の心を愈々大切にしなければならないと言う事。心は命の根。御米お米御米は命の根。心は命の根その根を大切にする。所謂愈々本心の玉を磨くものぞや、日々の改まりが第一ぞと言う様にです、心を大切に大切に扱うていかなければならんのです。そうするとお供えものと、おかげはつきものではないぞと、簡単に頂きますとです。「はぁ金光様の信心ちゃ、お供えせんでよかつばいの」と、いう様な風な頂き方ではいけないです。というて、お供えせんでもお取次ぎを頂いて。
 おかげを受けると言う事から考えてみてもです、成程お供えをしなければおかげにならんと言う事でも決してないと言う事です。毎日お参りをしてきてお供えもしないで、時々「先生御神米が切れました」と言われるから御神米を下げる。そういう方がありますよ。それでもそれは本当におかげを頂かれるです。ですからおかげは、お供えをせんでもおかげは頂けます。なるほどお供え物とおかげはつきものではない。
 と言うてただ心なしにというか、ただお供えさえすれば、おかげになると言った様なものでは決してない。けれどもそのお供えに、一生懸命の内容又は無条件という内容、そういうものがあれば、これは絶対と思われるおかげが伴う事は間違いないです。同時に参十参節です。お参りにお参りを重ねるという行き方。これも昨夜あちらの御霊様のご挨拶をさせて頂きました訳けでしたけれども。御神前で頂きますのが、見事な花台ですね。床の間に飾ってある花台に、見事な船の置きものが置いてある。
 御霊様の前に参りましたら、その船が生きた船であって、いわゆる人が乗れれる船であって、それがこう進水しておる所を頂いた。こう水の中に入って、水に浮かんでおる船を頂いたんです。私はそれを頂いて本当に思いました。もし綾部さんの信心が、いわば生きた信心がなされていなかったら、どこを見ても何を見ても部屋の調度と言い、全てのことがです。それこそ目を見張るような物ばかりが、部屋いっぱいに置いてあります。けれどもそれは、綾部さんの所のお徳でありましょう。
 そういうお徳の中に住んでおっても、生きた信心がもしなかったらそれは、ただ見るだけの事になるでしょう。いうならば見世物の徳。はぁあっちは昔からの分限者で、それこそそれは素晴らしい邸宅であり、お庭であり物一つでも素晴らしい。いつも三界の珍味を頂いて、金賦に巻かれてござる。言うだけであっては人間な幸せじゃないでしょうが。人からはそれこそ羨望の的というですか、羨ましがられるぐらいの、素晴らしい中にあっても人間そのもの、が生き生きと助かっていない。
 心に生きた喜びがないならば、それは見世物と同じ事です。財閥と言われるような、財産家でありましてもです。心が貧しかったり住んでおる人の、心掛けが悪かったりしたら、神様は幸せは許して下さらないです。綾部さんの所で、もしこの合楽に、御神縁を頂いておられなかったら、段々そういう風になっていただろう。いわゆる床の間の飾りの船の様な事になっておっただろう。
 船と言う事はお徳と頂くですが、お徳もただ見世物ではいけません。大きな教会があります、先代が徳を受けられた、それこそ伽藍堂のような立派な教会があるお広前がある。先日久留米の矢次さんが、御夫婦である所へ行かれた。大きな町ですからそこの中心の教会が、○○教会と言うのがあるからお参りされた。大変な大きな教会でしたけれども、参ってからぞうっとしたち言われました、帰ってきてから。誰もお参りがあっとらん。御結界に先生も座ってござらん。
 そして夫婦でそげん思いましたけれども、お広前入った途端にそれこそ、有難さでジーンとするとならよかばってん。それこそああたお広前入った途端にゾーとしたち。何かエスカモンばし見た時のごたる風な感じだったと言うておられますよ。これなんかはお徳がですよ、見世物になっておるだけなんだ。先代は大変な徳を持っておられたから、こういう素晴らしいお広前があるけれども、お参拝者はない御結界に先生が座ってもござらない。例えば世の中の大きな財産家と言う様なですね。
 財閥と言われるような方達の、中で住んでおる人達の、生き生きとした喜びとした喜びというものがなかったら同じ事なんです。冷たい感じなら、冷たい感じだけしかないです。それこそゾーとするごたる感じなんです。ところが中にです真正面の玄関入った途端にです、「真心」軸がかかってる。本当に真心と聞いただけでも有難い。しかもその真心ですいつの場合に、例えばお客さんに対しても、人間関係色んな場合です。いうならば無条件の親切というか。
 無条件の人間愛に燃えておられる方達が、中に住んでおられたら、もうそれこそ愈々有難い。それがお恵みの水に浮かんでおる船のようなものである。しかも帆を揚げればです、自分の目的の地目的の港に進んで行く事も出来る。いつも動いておるそういうおかげを、これは綾部さんのお宅だけではない、御霊様達もそういうお徳の船に、じぃっと動かなかった船が動き出した。そこに御霊様の生き生きとした喜びを、昨日は感じました。
 いよいよお互いおかげを頂きましてです、本当に参十参であるお参りにお参りを重ねることが、こよない楽しみだと。そしてです、真心込めて御用が出来る。真心込めてお供えが出来る。そのことが有難い、そのことが嬉しいことになった時に、その財産が生きてくる。どんなにお徳があって、どれほどの財産あっても、生きた働きをしていなかったら、それはもう死に物と同じ事。
 お供えものとおかげは付き物ではないと言うと、ただそう頂くだけじゃ、金光様の信心な素晴らしか、そるけん素晴らしかと言う人があります。お供え物は言わん。だからそういう頂き方ではいけない。なるほどお供えはせんでもおかげは受ける。お取次ぎの金光大神のお徳によっておかげは受ける。お供えをしなければ御神米を下げて頂けんと言う事もない。けれども愈々私共は絶対のおかげを頂くためには、絶対の確信。それが生まれてくるようなおかげを頂かなければ。いうならば信心が育つ信心が有難いものになってくる。 昨日丁度日田にやらせて頂こうという前でしたが、吉井から重松つぁんでしたか、ご婦人の方が毎日参ってみえる。まぁだそうですね、御神縁を頂いて一週間ぐらいでしょうか。本当におかげを受けられる。お母さんが久留米の病院に入院しておられる。それで吉井の杉さんにお導きを頂いて、「そんな有難いとこなら、私もどうでも一遍お参りしたい」と言うて、その日も久留米の方へ病院の方に行かれた。
 そして帰りに寄せて頂こうと言う。所が前日行った時とその日は、とにかく手の平を返すようにおかげを頂いておられたと言う事です。はぁこの神様は恐ろしかごたる神様だ。お参りをしようと、今思うただけでこんなおかげを受けておると言うて、帰りに立ち寄られました。あそこんにきがおかげ頂く者は違いますよね。確かにおかげというものは、一心を合楽へ向けたら、もう神様は受けとって下さっておるです。
 時間も空間もないです。おかげで出来たけんでもうお願いせんでも、お参りせんでんえと言う様な人があるかも知れません。お参りしようと思うたばってん、もうおかげ頂いとる病院にで。けれどもそこん所をです例えば、おかげを受けておる事をです、本当に合楽にお参りをさせて頂こうと思うただけで、この様におかげを頂いておると言うて帰りに寄られた。それから毎日参ってきよる。お仕事の方も大変お繰り合わせを頂く、昨日はそのお届けであった。
 思いがけないお繰り合わせを頂いたという、お礼参拝があっておりましたが、ちょうど、十日の御月次祭にも、やはり杉さんと一緒にお参りをされて、そして帰りがけ、「杉さん、こげな有難い神様が、ござると言う事は知らじゃった」ち言わっしゃった。また、こういう、今までかって聞いた事のない様なお話が頂けると言う事も、本当に知らなかったと。「杉さんこげな有難い教え、こげな有難い神様、本当にこれは、誰でん言うまいが」ち言わっしゃった。
 しかし私は翌る日杉さんが参って、言われるのを聞いてですね、素晴らしい表現だと思いました。合楽と言うて、そんなに有難いものに評価しておられるわけです。そりゃ子供が良い物を持っとっとにこう取ると、こうやって後ろに隠すような心理じゃないでしょうかね。ちょっとこげん有難い神様は、人にどん教えどんすまいやち言われた。自分達だけで、おかげ頂こうやという訳なんです。
 と言うことはです。どのくらい有難い神様か、どのくらい有難い御教えかと言う事を、実感がそういうふうに表現されたんです。そしていうならば示現活動の話しでも聞かれたらです、その有難いものが、次から次と伝えられて行く事に違いありませんよというほどしに有難い。この中から言うても、お供えものとおかげは付き物ではない事が分かるでしょうが。本気で合楽におかげを頂こうと思うた途端に、病室では変わったおかげになって現れておったということから言うても、そげなこっじゃない。けれどもこれから私共が、力を受けていかなければならない、お徳を受けていかなければならない。
 生き生きした喜びを、いやが上にも現し頂いていかなければならんと言う為には、今日頂いた参十参節からお参りが愈々、こよない有難いものになって来る事と同時にです、一生懸命のお供えが出来なきゃいけない。一生懸命の御用が出来なければいけない。又は何をさせて頂くでも、何をお供えさせて頂くでもです。いうならば無条件でなからなかればならない。それが私は真心だその真心が神様に通う。
 それが力ともなる、徳ともなるというおかげになってくる程しの、私は御理解だと思う。頂き方を間違えるとですね。それこそ何十年参っとったちゃです、金光様の信心はお供え物はせんでも、おかげは頂けると言う事を、確信持っちゃるわけです、その方なんかは。そういう方があるんです。それでどうかある時には御神米が切れましたと言や、御神米を頂くから、だから本当にお金も要らず、おかげを頂けれる神様だ。
 あの人には、お供えもせんけん、おかげはやらんち言うごたる、ケチな神様ではないことだけは分かるです。けれども、私共は、欲しいものは力である、お徳である。しかも無尽蔵に、限りないおかげの世界に入りたいです。お供えしても、お供えしても、一生懸命お供えしても、お供えしても、後から後からと、尽きることのないおかげを頂かせて貰うということが有難いのです。それはもう徳であります。